[ 2003.04.01 ]
先日久しぶりにコンサートヘ出かけた。それは小椋桂の〈歌談のタベ〉と云うタイトルだった。歌と語りの二時間だったが、軽妙なタッチのおしゃべりと力みのない歌声が、今流に言えば、程よい癒しの時間であった。

また少し前に、これはある政策講演会のあと、第二部として三遊亭歌之助の落語を聞いた。ついでのつもりだったが、体全身を使つた動きのある熱演に引きずり込まれ、あっと言う間の九十分であった。

歌語りのショーでは、爽やかな風が心の中を洗い流してくれるような心地良さを。そして落語の方は、腹の底から笑えて、活力を与えてくれる知的快感を味わった。

この二つの公演は、歌謡ショーと落語と言う全く内容の異なったものでありながら、観客を魅了する点では共通する要素を備えていたのである。

これ等の共通する、観客を引きつける魅力とは何か?を考えてみると、話芸の内容と共に絶妙な〈間〉の取り方が伺えるのである。間とは、話と話を繋ぐ時間・空間であるのだが、この間の取り方によって話がしらけたり充実感を覚えたりする不思議な空間だ。

間は全てのジャンルに於て重要な役目をしている。その中でも特に瞬間芸術、時間芸術、と言われる分野、つまり書や音楽と云った、時間の流れの中で制作、或いは演奏される物に於ては、間は作品の命運を掛けるのである。音楽で言えば音と音の間、そして音の高低が命である。書で言えば文字と文字の間、一つの線から、次の線へ移る空間、つまり目に見えないが連動した筆脈の事、そして音の高低が、線の抑揚を指す。

これらを考えると、如何に見えない部分が重要 な役目をしているかが分かる。作品制作に於て、ただ紙面上に書くと云う行為だけでなく書かない部分の余白、空間を如何に活かすかが作品の決め手になる。草月流家元の故勅使河原創風氏の言葉に「駄目な作品の多くは花材の入れ過ぎにある。空間が寂しい気がしてついつい沢山入れ過ぎる」と。これは全てのアートに共通して言える事である。

話すことが商売と云っては失礼だが、大学教授や学者の講演で、やたら難しい言葉を多用し博学ぶりをアピールする先生方の慣れで話すタイプより、素人でも話の中にひたむきな姿勢が感じられる稚拙感を漂わせる人の方が好感を抱くものだ。

間はその時々の状況によって一人一人自分自身の〈間〉を持っている。如何にその間を上手に活かすかがその人の個性でもある。
(月刊「書の美」2003年4月号『徒然なるままに』より)