[ 2003.02.01 ]
ぶらり旅にでる。移り変わる様々な風景に目を奪われ乍ら。足元の小さな草花にも優しい気遣いの心になれる。山あいのひなびた温泉に宿をとり、湯船に浸りながら日頃の疲れを癒す。そこに自分だけの空間が出来た時、素直な心が感動を呼び起こす。

普投詠む事もない句を一句。俳人や詩人になれる自分だけの瞬間だ。素敵な情景の中で、素直な自分になれたとき、自分の感動を詩に或いは絵に描く。詩人や文人、画家でなくてもこうした衝動に駆られる事はだれしも有るのではないだろうか。

今この不景気な時代にそんなゆとりも金も無い、と聞こえて来そうだ。しかしこんな時代だからこそ、こうした心のゆとりを、感動する心を大切にしなければならないのである。時間は自分から創り出さなければ一生出来ないものであり、お金は掛けなくとも工夫次第で、最小最大の効果を創造するところに楽しみが有るのである。心の中まで干からびて貧困にならない様に願いたい。

さてこうした自然環境の中から受ける様々な要素を受けて感動、感激、感銘を受け、その中から作品は生み出される。

つまり作品とは、その対象物が一人一人の目を通して体内に送り込まれ、脳を刺激し、心を揺り動かされる。そこには当然人によって物を見る目も、感じる心の 度合いも違う。こうした感動、感激の裏付けがあって初めて、作品として体外に表出されるものである。そこに表出された作品は各人の咀嚼された形の結晶が誕 生する訳だから、人によってそれぞれ違うのは当然の事なのである。

にも関わらず書の世界は旧態依然とした師匠の物真似の世界が未だに続いているのである。何の裏付けもない単なる文字群の羅列で無味乾燥な書展が巾を効かせている。

また出品者側が何の疑問も抱かない様な書の世界ではお寒い限りである。これは書の対象物としての古典をどう捉えるか、と云う初期の取り組み段階に於いて、初学者の心を無視した、「書は模写から」と云う誤った捉え方に要因があるのである。ただ単に古典を写し取るだけでは何の意味もない。そこに作者の目がそのレンズを通した作者の介入が重要なのである。古典を、或いはお手本を見てどう感じたかが重要なポイントになる。

写実とは形を写し取るのではなく、感じた心を写し取る事であると認識して欲しい。今まで感受性を育てる勉強をして来なかったところに、書の芸術性が立ち後れてきた要因がある。今の時代、模写はコピーで充分なのだ。
(月刊「書の美」2003年2月号『徒然なるままに』より)