インタビュー

朴伝に聞く

-先生は書歴50年、平川先生に師事されたのが1963年ですね。
朴伝 もうそのくらいになりますかね。
-先生は大阪にいらしたんですよね。
朴伝 平川先生についたのは高校のとき。高校の書道部で、2年と3年の2年間。その後は就職で大阪に3年間、そして帰ってきてからですね。
-高校の書道部は2年、3年のときですか。
朴伝 1年のときは書道はなかったですね。選択科目といっても全員書道だったんです。美術、音楽の先生はおったけどね、どういうわけか全員書道だった。
-それは平川先生によっぽど魅力があった。
朴伝 うん、なんかよく知らんけど選択科目といいながら全員書道だったね。そのあと書道部に入ったんです。誘われて。
-平川先生に?
朴伝 いや、先輩に誘われて入った。友だち2、3人と。書道といったらほとんど女性でしょう。当時40人くらい部員がいたんですよ。
-そんなにいたんですか。当時としては珍しいんじゃないですか。
朴伝 その中に男性というのはほとんどいないから、私が友だちを引っ張り込んで。そうしないと僕が1人になるから。で、しばらくすると辞めていくでしょう。そしてまた次を引っ張り込んで、また次にという具合に。で、実際続いたのは男性では1人ですけどね。
-ああ、先生お1人。
朴伝 なんで書道部に入ったのかよくわからんけど、とにかく何にも好きなものも得意なものもなかったところに、たまたま平川先生にほめられた。中学校まではとにかく書は怒られてばっかりいたから。中学校までの書は国語の時間ですよね。そうすると字がへたくそだから怒られていましたよ。高校になって平川先生から「お前の字はおもしろか」と言われて。
-それは書道部に入る前にですか。
朴伝 そう。なにも得意なものはないのに書道だけ教室の後ろに張り出されたりとか。
-「これはおもしろい」と平川先生に言われたときの字はどんな字だったんですか。
朴伝 通常、仮名を「いろはにほへと」と書くでしょう。きれいな仮名を。それが今思えば近代詩文みたいに、小筆なんかほとんど使ったことがないから、根っこまで全部おろして、それでだぼだぼの線で、ぼてぼてに書いていた。
-それは先生が意図的に?
朴伝 いやいや。もう書けんから、どの位おろすのかもわからない。だいたい今まで書道なんて習ってないから。
-ああ、だから自然に全部おろしてそれで、ぼこぼこと。
朴伝 そう、太い線でぼこぼこと。
-それが平川先生の目にとまったと。
朴伝 そうそう。「お前んとはおもしろかね」と言われて。そう書くと中学校では今まで全部はねられていた。それが高校ではほめられたんです。
-一転して評価された。
朴伝 それまで学校でほめられるのは何もなかったけんね。何も得意なものはなかったし、それともう一つは、何をするにしても消極的で何もできなかった。だから、唯一学校でほめられたのはそれぐらいで。
-作品集にも書かれていますが、子どもの頃から消極的でと。
朴伝 小・中学校のときの通知表にも積極性が足りないとか書いてある。何にもできないし、とにかくあがり症で、小学校から高校まで人の前に立って話したことは一度もないですよ。もう、赤くなってガタガタ震えて。うちの兄貴は出来る方だったから、ずっと級長とかやって、常に人の前に立ってしゃべる。その影で私は一つ違いだけど、学校の先生からも、「兄貴はよかばってん・・・」と言われ続けて。そして自分でも何も得意なものはないし、自分は何もできんと思っていて、反発も何もなかったですけどね。
-そういう子どものときの先生が今はもう・・・(笑)黒と赤でねえ・・・。
朴伝 どっかで変わったんですね。(笑)
-平川先生におつきになって、いろいろ教えを請うわけですよね。その中でだんだん性格も変わっていった。
朴伝 うん、それと彫刻家中西先生の存在ですね。異分野との交流。だから会社勤めをしていたときに、趣味でやっている連中だけで集まって、書道に絵に彫刻にデザイン、写真、生花、いろんな連中の初心者ばっかりですよ。30人ぐらいでグループを作って毎月1回勉強会をやっていた。そういうのがいろいろ眼をひらかせるきっかけになったし、勉強にもなった。
-そんな中で平川先生から「若い者は冒険しろ。何やってもかまわん。めちゃくちゃでもいい。俺が責任を取る」と。
朴伝 最初の頃は、展覧会をやってみたい。観にきてほしい。しかしいろいろ聞かれたら返答しきらん。素人さんならいいけど、プロ絵描きとか、新聞社やテレビなど報道機関で突っ込んで聞かれたら、返答しきらん。やってみたいけど怖い。「こんなのが書か。芸術か。」と言われて返答出来ない。で、先生にそういうことを話したら「ああ、やってよか。思い切りやれ。俺が責任を持つから。若い時はやりっぱなしでやってよか」と言われて。先生がバックについているからということでね。先生によっては「それだめ。あれだめ」という先生もいっぱいおりますからね。
-そういう平川先生の言葉をもらうのがまだ20代の頃ですか。
朴伝 そう。そして趣味のグループで毎月1回集まって、今月は全員そろって書の勉強。今月は彫刻と。今月は全員石膏でマスクをとってみようとかね。スケッチに行って絵を描いてみようとか。写真の撮り方、デザインの仕方とか。そういう実技の勉強と芸術論をみんなでよく勉強しましたね。
-今、横の線で繋がる勉強会ってないですからね。
朴伝 その当時30人位いて、その中で専門家に近い人と言えば中学校の美術の先生がただ一人、それ以外は全員素人。だから絵を描いているといっても、「カレンダーがあったからカレンダーを見て描いた」とかそんな程度のみんな素人の集まり。だけどみんな毎月一回集まっていろいろああでもないこうでもないと。

34歳の決意

-先生は完全にサラリーマンを脱して、この道に専念されるのが何歳ですか。
朴伝 34歳だったと思うけど。書道をはじめた最初のきっかけは、暇つぶし。
-大阪から帰ってこられて、平川先生からの誘いもあるんでしょう。
朴伝 うん、それもあります。正月にあいさつに行ったときに、「暇なら出てこんか」と言われて、暇がありすぎていた。大阪にいるときはもうめちゃくちゃ忙しかったんですよ。朝から晩まで。1年間通して休みは正月の3日間だけ。日曜祭日何もない。朝7時から夜9時、10時までは平均労働時間。お昼の食事時間が10分か15分ぐらいという。
-それがこっちに帰ってこられたら。
朴伝 そうね。もう10分の1かそれ以下。似たような仕事に就いたんだけど、自分で電話帳であちこち仕事先を探して。で、きれいな感じの店があって聞いたら、すぐに来てくれということで。あとで考えたらだいたい忙しいところはごちゃごちゃしていて、暇な会社はきれいに整理整頓されている。(笑)会社の上司が辞めて自分で独立し、お客さんもいっしょに持っていってるらしいから、あとはガラガラ。それで、毎日毎日営業で外回りをしたんです。だけどまだ20代前半の頃ですよ。建築金物の会社だったけど、ほとんど相手にされない。玄関先で門前払い。とうとう、長期戦でいこうと思って、会社には仕事に行ってきますと出て行って、朝から喫茶店に入ってスケッチしたり文章を書いたりそんなことばっかりしていました。
-あーあ、別の仕事をしていたんですね。(笑)
朴伝 当時のデッサン帳とかいろいろありますよ。デッサンはかなりいろんなことをやりました。
-そんな時代が10年ちょっと続くんですか。
朴伝 いや、10年も続いていない。書道を始めて、最初は趣味でやっていたけど、だんだんだんだん面白くなり、深みにはまって中途半端になると思ったんですよね。会社も書も。だからどっちかに絞りたいと。と言って書で飯は食えない。だから書を辞めきるかというと辞めきれない。迷ったんだけど、家内と相談して、たちまち飯が食えなくなるかもしれない。しかし書を辞めきらん。中途半端で両方はできないから、会社を辞めて独立したいがと。そしたらそれはいいよと。生活できないときは自分も働くから好きなことをやっていいと家内が言ってくれた。
-それが34歳。
朴伝 そうですね。最初は、辞めて10ヶ月でなんとかしようと思ったんです。失業保険がおりる10ヶ月間で。実際には、その10ヶ月間で会社に勤めている時よりも収入が多くなった。生徒がどんどん増えて。会社勤めをしているから書道教室をもてなかったわけで、会社やめれば毎日空いているから、毎日教室ができるわけでしょう。どんどんどんどん増えていって、一番多いときは子ども大人ひっくるめて250人ぐらいいた。
-それが1970年代ですよね。73年ぐらい。
朴伝 30代の頃ね。30から40というと私の子どもがちょうど小学生ぐらい。友達の子どもがちょうど小学生ぐらい。友達の子どもがみんな習いに来て、私は基山にいたから基山でちょうど友達の子供をみてくれとか、彫刻とか絵といっしょにやっていた仲間うちからも、うちの子を教えてくれとか。
-今はね、なかなか子供もいないし、大人も来ないし。その10ヶ月間でサラリーマンのときよりも収入が増えたんですね。
朴伝 1974年。34歳か。当時も今にしてもそうだけど、書道を専門にしている人はあんまりいなかった。学校の先生の傍らというのはけっこういるけどね。
interview6
interview7

忘れられない失敗

-プロになってから、毎年のようにいろいろなことがありますね。
朴伝 そうね、次から次にね。それもほとんど外から声がかかってくるんですよね。最初のうちはとにかく消極的でなんにも出来ないという状態だったでしょう、だから書道だったら人前でしゃべることもそんなになかろうと思って、手本を書いて添削して返せばそれですむと思っていたから。人の前に立つ練習をしないといけないと思ったのが、まだ20代前半の頃の失敗ですよ。会社勤めをしているときに、結婚式に呼ばれたんですよ。社長が出られなくなったから代理でと。何もしゃべらんでよければ出るよ、と言って。話はせんでいいようにちゃんと司会に言っておいたからとのことだったから、何も言わんでいいんだったら出るよと出た。最初に、社長が出られないので社長からメッセージをいただいています、と言って司会の人が読み上げられたんですよね。そして会社から松田さんが見えているからといっていきなり指名された。全然予想もしていない。突然言われて、今で言う頭が真っ白という状態で、シドロモドロで何を言ったのかわからない。そのときに痛切に感じたのが「間」なんですよね。指名されて、みんな挨拶を聞こうと思って黙って待っているでしょう。こっちは突然で、全く予想もしていなかったから、しゃべらんでいいって聞いていたからじっと座っているでしょう。みんなじっと待っている。もうこれ以上座っておれないという、ぎりぎりの時間、とうとう立ち上がってなんかしゃべったんだけど、その時に痛烈に思ったのが、「間」。これ以上座っておれないという。その後もう人の集まるところには行くまいと思った。(笑)そしたら東京に行ったときに、二度目の失敗があってですね。展覧会かなんかで行っていて、銀座を見て回っていたら、ちょうど大東文化大学の展覧会があった。今からオープニングセレモニー。私はほとんど知らないんだけど、九州出身の大学生が多かったらしく、今ちょうど松田先生が来られたから挨拶をお願いしますと言われて。この二度目の失敗でこれは逃げられないと思って、次の年から自分で子ども達の展覧会をするようにして、代表者挨拶をする場所を作ったんです。
-あーあ、もう自分で作っていったんですね。
朴伝 そう、だから来賓挨拶、代表者挨拶という場を自分から作ったわけですよね。もう逃げられないようにしてから。
-現代青少年書芸展ですね。
朴伝 そう。人前でしゃべったことがなかったから失敗の連続で、最初は原稿用紙に書いて一生懸命それを丸暗記してしゃべっていたけど、途中で後が全然出てこなくて、紙を取り出して読んだりとか、その次には丸暗記は駄目だという事で骨組みだけ立てようと、あとは適当に枝葉をつける練習。車の中で。そしたら徐々に慣れていった。それからいろんなことにチャレンジしました。初めてビルの中の大きい壁書を頼まれたときに、そんな大作書いたこともないし、出来ない、と。相手が一流建築会社で、ちょっと荷が重すぎるといったら、彫刻家の中西先生から、する前からできないと言うなと怒られて、できると思って向こうは言うてきとるんやけん、まずやってみろと。その頃はまだ会社勤めだったから、会社を3日程休んで近所の公民館を借りて、新聞社からロール紙の残りがいっぱい出るからそれをもらってきて、原寸大で何十枚も書いたですね。

チャレンジ

-この電気ビルの作品が壁書の初めての作品ですか。
朴伝 そうですね。
-このときはどんな中身だったんですか。これは1500×5000。紅。
朴伝 一枚の登板が50cm角なんですよ。もうちょっと長かった気がしたけどな。6m。
-ああ、ほんとだ。これが先生が28歳。そのときにもうこういう仕事をされていたんですね。僕はね、先生の作風は、平川先生の作風とは全然違うでしょう。これもそうなんだけど、こういう作風はどこから出てきたんですか。
朴伝 だいたい平川朴山、松田朴伝で朴がついているから、その名前だけですぐ朴山の弟子とわかるわけですよ。同じ様な作品では真似をしていると言われかねない。とにかく師匠の作品に似ないことを心がけた。似ないように似ないようにと。それが彫刻家、絵描き、写真家とグループを作っている中で鍛えられていっているわけですよ。
-なるほど。勉強会の中で出てきたわけですね。
朴伝 先生自身も俺の後ろからついてくるな、後ろからついてくると俺を追い越せんぞ、横を行けと。先生は毎日何時間も、何十年もやってキャリアを積んできている。それを普通に追い越そうとすれば、それ以上のことをやらないと、同じことをやっていたってそれだけのキャリアがかかるわけだから。それなら違う道を通れと。とにかく師匠と似ない作品をつくること。それを心がけて。そして先生は何でもやっていい、立体でもなんでもと言ってくれたんで、思いきっていろんなことをやってきた。
-これは筆を使われているんですか。
朴伝 いや、シュロホウキ。
-あーあー。
朴伝 20代で血気さかんなころですよね。もうやりたくてむずむずしていたんですよ。展覧会なんかもやりたいけど先輩がいっぱいおるわけでしょう。こっちは若いから。先輩に展覧会してくださいと言ってもなかなか誰もしないんですよ。とうとうしびれを切らして、建築と書展というのをやったんですよね。そのときには先輩にも声をかけて、一人で一壁面を作り上げていくという。だいたい一人あたり10m、それを作っていく。そういうものをやろうと。あの頃はいろんなことをやっていましたね。うちの生徒さんは、壁にタイヤをぶら下げた。軽からトラックまでいろんなタイヤをチェーンでぶら下げたり、私は仕事柄トタンをカットして折り曲げて、木枠だけを組んで、それに大きいやつを四種類、タイルみたいなものを鉄板で作り上げて、それを何十枚と並べて、そして壁画みたいなものを描いたりとか、中央に柱を作って、会場のド真ん中に作って、縄を巻きつけてみたりとか、金属板にドライバーで型をつけていったりとか、これは、30代の終わりですね。これは四壁面あるから、一壁面に一点ずつ。これが一つ、二点、三点・・・・県の美術館ですよ。
-これはタイル?ベニヤ板にタイル柄のクロスを貼って、当時からうちの美術館の館長をしている伊藤さんが、インテリアの会社の社長さんをしていたので、彼が全部作ってくれた。この大型パネルを全部無料で作ってくれた。
-これらの作品はどこに行っているんですか。
朴伝 どっか捨てたんじゃない。(笑)置き場所がない。東京でやったときは、20数mを書いているが、あとはどうしますかと言うから、どっか捨てといてって言って。宗像のアトリエにまだあるのは、高さが5m、幅が20mあります。組み立ててそのサイズになるんですよね。文化会館とか、ホテルのロビーとか、いるところがあればやると言うけど、大きすぎて誰もいらんと言う。(笑)
-それは5mもあると大変。
朴伝 新聞社に知り合いがいて、どっかホールみたいなところでいるところがあれば寄付するから、と言ったら、そげんとのいる所はどこもなか、どっか捨ててこんなと。新聞社の文化部長ですよ。
-まあ、新聞社の文化部長なんてそんなもんですよ。
朴伝 以前に聞いたのが、作家連中は自分たちのペン一つで何とでもなると。どこのだれそれが中洲に連れて行って何十万と飲ましたとか、そんなことばっかり言ってね。ふざけるなですよね。それから久留米でファッションショーがあってそれに壁面を書いてくれと頼まれたんですよね。ファッションショーでパネルを立ててステージがこうあって、この間からモデルさんが出て来て、この両側を書いてくれということを頼まれた。縦が2m50の幅が5mぐらいと。それを二面。下に準備しとくから書いてほしいと。翌日立ち上げるという話だった。そして書きに行った。縦横逆になっているわけですよ。そうすると作っていった原稿が使えないんですよ。でおまけに全部立ち上がっている。下で書く約束だったのに。高さが5mぐらいに。「約束が違うじゃない」と言ったら、「すみません。縦と横の寸法を間違えました」と。それからもう一つ、時間がなくて立ち上げてしまいました。それまではよかったんですよ。その後「しかしあなたプロでしょう。プロならどういう状態でも書けるのがプロじゃないか」と。
電気ビル壁画電気ビル壁画
interview5

頼まれたら断らない

朴伝 それで頭にきてから「もうよか、書く」、と言ったんです。5mあるから一人でできない。助手がいる。うちの生徒さんに電話してきてもらって、足場は脚立を二つ持ってこらして、板を渡して。六時間ぐらいかかったかな結局。書き上げましたよ。その時に頭にきてた「プロだったら何でも書ける」と言われたから、それから頼まれたら断らない、特に新しいことに関しては、今までしたことがないからと、逃げ腰だったんですよね。これをきっかけに、特に初めてのことに挑戦ですよ。初めてパフォーマンスを頼まれてやったときに、ジャズと組んで。とにかくやってみようと。そのときに見に来てくれた人から、フランス公演に参加しないかと誘いがあったんです。でそのときは劇場のステージバックを書いて欲しいと言われたんです。パフォーマンスで。5m×15m。それをパフォーマンスで書いてほしいと。そんな大きなのは書いたことがないけど、おもしろそうだからやってみよう。そしたら途中から役者が足りないから出てくれと言われて。こうなったらなんでも挑戦。
-無理なことを言われて、普通なら二度としないというところを、先生の場合はよし頼まれたら全部引き受けようとなるわけですよね。
朴伝 それが昔は引っ込み思案で逃げてばっかりいたから、それの反動かも知らんけど。

多恵子婦人も交えて

朴伝カラーの赤と黒

-先生が赤と黒になったのはいつなんですか。
朴伝 急にパッとなったんじゃないね。やっぱり自然とですね。最初はとにかくごく平凡、若い頃、髪は七対三に分けていたし、蝶ネクタイをしたり、あの頃は蝶ネクタイがはやっていました。18,9歳の頃。昭和34,5年の頃ね。勤めのころはそんなに変な格好もされないし、ロングヘアーにしていたけど、なんか頭がもやもやしていて、すっきりさせたい。作品を作るでしょう。その時に、なかなかイメージが湧いてこない。なんか頭をスカッとできないかと。バサっとロングヘアーを切ってしまったんです。そして作品のイメージが湧いてきたような感じだったですね。
-ロングヘアーをいきなり剃ったんですか。
朴伝 そうですね。剃った後、一年間そのままとか。頭を剃って髭だけ伸ばしたりとか。
-それは独立されてから。
朴伝 たぶん。会社のときはそこまでされんからですね。友だちに言わせると、会うたびに格好が違うと言われてた。久留米がすりのシャツを知り合いからもらったら、そのままでは面白くないから、ハサミでジョキジョキ切って穴を開けたりとか。
-平川先生のお祝いの席で、他の人はスーツなのに、先生はジーンズの上下で真っ赤なセーター、髭面もありましたか?ジーンズが印象に残っているんですよ。
朴伝 一時期ジーンズばっかり着ていました。ズボンの裾をバラバラにしてみたり、歩くモップと言ったりしてましたね。(笑)
-その頃というのは、先生の一連の作品がどんどん生まれていた頃?
朴伝 ですね。頭を剃りあげたのは、作品が出来ずにモヤモヤしていた頃、それからシャツが次々に変わっていった。僕らみたいにもの作りの人間には刺激が必要です。刺激を自分自身に与えるにはどうしたらいいかと考えたとき、確かに海外に出ていけば異文化で刺激を受けるけど、年中出ていけないし、最初のうちは五年に一度は出ていきたいなと。しかし、なかなか思うように行きたいと言ってサッと行けるものでもないし、日本にいても刺激受けることはできないかと思った時に、自分が変身していくしかないなと思ったんです。自分を変える事、服装も変えることによって人から注目を受ける。そしてあいつは何者だと。変な格好ばかりして、草履でも赤と黒を履いたり、シャツやズボンも右と左で寸法を変えてちょん切ってみたり、あっちこっちに穴をあけたりすると、あいつ何者だと当然なってくる。そんなときに、あれは書家らしいよと注目してくる。そのときにそれなら作品はどんなものを作りよるのかと。変な格好をしているが作品もおかしかね、ではいけない。作品はしっかり。まず、注目させておいて、その注目に値する仕事をする。
-自分で自分を追い込むために格好を。なるほどね。
朴伝 変身するのは、人から言われるのではなくて自分で変えていくしかない。前に話したように自分が消極的だっただけに、自分を変えたいと。
-自分で変えたわけですね。そういう姿を見られていた奥さんはどうでしたか。
朴伝 恥ずかしかった?一緒に歩いていて。
多恵子夫人 うーん、そんなことはないよ。気にはならなかった。自分を表現する手段でしょう。
朴伝 だいたい会社を辞めるときも、食っていけるかどうかわからない。会社と書がどっちも中途半端じゃいけない。どっちかに絞りたいのに会社は辞められても書は辞めきらん。その代わり食えなくなるかもしれない。だけど一本に絞るならば、書に絞りたい。と言ったときに、自分の好きなことをやっていいよと言ってくれた。サンフランシスコで展覧会をしたいと言ったときも、行く前に資金作りの展覧会もやったけれど、足りない。今までコツコツ貯めていた金を出してくれてたりとか、それこそよくしてくれているから私の今がある。
-美術館のパーティーでおっしゃられていた、結婚されて?
朴伝 46年かな。
-一回も喧嘩をしたことがないと。そのときたまたま奥さんはいらっしゃらなかったけど。
朴伝 おるとき言おうと思ったけど。(笑)
-それを聞いて、こんなことありうるのかなと。
多恵子夫人 親子喧嘩はあります。自分の親ととか子どもととかはありますけど、夫婦はないね。
-信じられない。奥さんは芸術家松田朴伝に賭けたんですか。
多恵子夫人 賭けたというか。
朴伝 結婚したときは書家になろうとかは全く。
-それが先生が独立、書家一本でやるとなったときに奥さんは反対もされずにおやりなさいでしょう。
多恵子夫人 そうですね、まあ自分の好きなことですからね。
-で、食えなくなるかもしれないと。
朴伝 そのときは自分が働くからと。
多恵子夫人 内職もしましたね。パートにでたり。子どもがいるから学校にも行かないといけないし、パッと休める仕事ということでパートなどを。
朴伝 私は家のこと、町内のことから子供の学校にも行ったことがない。学校に行くのは好きではなかった。ところが知人の子供のことで学校に行ったことはあった。子どもが登校拒否で、私の書道教室だけには来ていました。素直な子だった。日にちを決めて、私と学校に行く約束をして連れて行ったんです。後で聞いたら、教室に自分の机がない、今まで来る来ると言いながら一つも来なかった。今度も来ないだろうと。自分の子どものことでは行ったことがないのに、よその子のことでは何回も行きました。話がそれたね。(笑)
interview2
interview4

燃えたぎる情熱の赤

-そうそう、赤と黒ですよ。
朴伝 もともと作品作りをするうちに、作品の中にだんだん赤を入れたくなってきた。あれが不思議と情熱、力が湧くような。特に赤と黒はそういう感じなんだけど、なんかこう、特に若い時に燃えたぎるもの、それは赤でないと、どうも気合が入らない。で、自分を奮い立たせるのはもう赤だと決めたんです。情熱、パワーを。
-あーなるほどね。結局全部自分を追い込んでいるわけですね。赤は自分を奮い立たせる。
朴伝 燃えたぎる血、情熱、それは赤でないと出ないでしょう。それと黒の書の持つ本来の力強さに赤を加える、それが自分に気合を入れるような気がして。ジーンズを切ったり、雑草折や目の粗いような布を買って着てみたり、夏場は作務衣を着たりいろいろしたけど、一番パワーが湧くのは赤。赤を着てないと自分でしょぼくれた気がして。
-最初は作品の中に赤を入れて、それがだんだんだんだん。
朴伝 自分にのりうつってきたのかもしれないね。
-知らぬ間にそういういコーディネートに変わってきた。
朴伝 うん、ある日突然スパッとじゃないね。自然と。着てるものの中に赤を、その赤がピンと何か感じさせるものがあって。
-先生が赤黒以外を来ているのを見たことがないですね。この赤と黒だけのスタイルになってどれくらいですか。
朴伝 一五年か二十年ぐらい?
-その間、常にこの赤?
朴伝 赤もくすんだ色とか嫌。原色のあざやかな赤でないと。
-この事実もすごいことですよ。
朴伝 いや、自分を変身させようと思ったときに、今まで地味なのを着てばかりいて赤い服を着ること自体が、普通の人にとったら冒険。サラリーマン勤めの人たちも、いくら休みでも赤い服は着ないと言う。
-うん、うん。
朴伝 だから自分を変えたい変えたいで、最初来たときは照れくさい感じだったけど、もうそれが当たり前になって。
-今は赤黒オンリー。
朴伝 家も赤黒白。墨の黒と朱液の赤と紙の白。
-十五年二十年徹底的に赤と黒に、二色にこだわっている人はいない。東京で雑誌の仕事を三年やりましたがいなかった。

目立つだけではない

朴伝 この前ラジオで山本寛斎が地味な服は罪悪だと言っていた。自分はど派手な服を着る。それで何者だと思わせる。
多恵子夫人 それで得もしたよね。
朴伝 ああ、おんなじだと聴いていた。まず、引きつける、ファッションデザイナーだ、書家だと。私を見て書家と言う人はまずいない。変な格好ばかりしているからラジオやテレビにもたくさん出ました。どんな人だろうと使ってくれる。
多恵子夫人 寛斎さんが言ってたね。派手な服を着ていたら人が話しかける。何をしてるんですか。その服はどこに売っているんですかと。
朴伝 そういえば僕も、カーボーイハットの真っ赤なのをかぶって行くんだけど、かっこいいですねとか、写真撮らせて下さいとかあるんですよ。
多恵子夫人 やっぱりサングラスかけたら怖いでしょう。
-えーそりゃあもう。知らない人が見たらね。(笑)
朴伝 大学で講義してくれといわれたときに、今の生徒は先生の話は聞かないでおしゃべりばかりして、怒って帰る先生もおるから怒らんでください。よしわかったと、その時にサングラスをかけ、ズボンの裾は右と左と寸法を変え、シャツはギザギザ穴を開けて入っていった。教室に入ったとたんにシーンとなった。普通の先生は、ちゃんとカッターシャツ着てネクタイしめて革靴履いて、それが全く違うでしょう。坊主頭でサングラス、何者だという感じ。一時間半やったんだけど、実にみんな真剣に聞いている。後ろで先生方が聞いていたんだけど、この手の授業でこんなに生徒たちが真面目に話を聞いたのは初めてですと。怖かったんじゃないかな。その時は料理の話をしたんです。料理に必要なものは何かというと、当然味が美味しくなくては駄目。おいしいものをよりおいしく食べさせるためには、あったかいものは温かく、冷たいものは冷たくという温度、それからよりおいしく盛りたてるには、器も必要。それに合ったもの。彩りなど。いろんなものが絡みあってくる。料理ひとつするにしても、いろんなものが構成されておいしい料理ができる。おいしい料理にも「間」の問題がある。一つ料理を食べて次が出てくるまでの時間が長すぎると、間がもたない。「間」がいかに大切かということから美術の空間美に話を持っていったんです。「間」というのがいかに大事か。「間」というのは空間構成だし、音楽であれば音と音の間が「間」、その間が抜けたら音楽は全く出来ない。見えないものの「間」がいかに大切かというのに持っていって、そしたら真剣に一時間半。それからJR九州で講義をやってくれと言われて、JR九州の場合はもと国鉄で、お硬いさんばっかりいて、服装もきちんとして来て下さい、と。私は草履を履いて、穴のあいた服を着て行ったんです。そしたら向こうはびっくり。やっぱりみんな背広を着てネクタイしめてくるわけだから。
-わかったって言って。
朴伝 そう、私の服装はそれがきちんとした服装だから。向こうの、センターの所長が、偉い気に入って、是非毎年それで来てくださいと。それで五年間行きました。私の制服はこんな感じで通してしまった。アートフェスティバルが福岡であったときに、スポンサーを取るのに、先生ついてきてくださいというから、いいよと行ったら、そんな格好で来たんですかと言うから、これでいかんなら帰るよと。昔の消極的な人間が一転して、自分を変えたい変えたいというところから自然といったのかなと思うんですけどね。特に今まで自分が経験した事がないことにはチャレンジしてみたいと。
(本インタビューはART WALKER Vol.6からの転載です。)
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